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高揚感というか、面白さが沸き立つような執筆感がほしい

執筆の相性の話。

書く、という作業は、人によって得意不得意があるけど、得意な人はドーパミンでも出てるんでしょうね。どぱーっと。

何か、面白いことがないと執筆できません、という自分にとって、毎日更新とかは望むべくもないのだが、でもやりたいという。

面白い本を読んで、それの感想でも書くか、といっても、読んでいる時間が足りない。また、今読みたい本が、読みたい文章ではない、という問題が。こんな読みにくい文体を読まなければ読めないのか、という徒労感。それが面白さを半減している。これは単に相性の問題だから、書いた人には罪はないのだ。

書く、と読む、が分離している。書くのは、思考をそのまま書けばいいが、それを後からなぞる読むという作業では、不満がでることがある。

書くよりも読む作業に集中しなさい、読むことのほうが多いのだから。とかいうコード論は、ブログには当てはまるのか?

書いても書いても読み直さない、書きっぱなしのブログでは、読みにくさはひとかけらも改善されない。しかし、問題は、問題の発生したレベルのままでは改善されない。つまり、文章力が向上しないかぎりは推敲できないのだ。これはイタイ。執筆の良いところは思考ができるところだ、なんて指摘は、書く人全員が共感するかもしれないが、当たり前すぎることを書いても共感されないであろう。

原体験として、執筆には良い思い出はない。苦労した、書く、ということがまるで出来ない時期があった。答えるならできた。しかし、文章を綴る、という行為は、ある程度客観性がいる。客観視ができていない状態では、書けないのもムリはない。

書く行為は、過去の自分との対話だ、というもっともらしいことを考えたが、検証はしていない。文頭から離れるにつれ、文意を踏まえた文章を考え続けなければいけないのだから、対話という表現をした。この、文意を踏まえるレベルによって、感想文だったり、小説の出来が変わってくる。あまりに大きい文章の場合、ブロックごとに分けて、ここはこういう文意で書きましょう、みたいな設計図が要るようになる。

設計図を見て、完成図が想像できるか、という問題が生じる。設計図が曖昧な認識では、ぶれる恐れがある。まあ、ぶれるのも個性だから別にいいといえばいいのだが、完成度が下がるとすれば、避けたいもの。

この文章の場合、設計図はない。むしろ、全部即興で考えている。そう、考えている。文章を書き始めの時点では、全く、設計図の発想はなかった。そういう新しい出会いがあるので、文章を書くのは面白い。

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