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初音ミク10周年に向けて

何か動画を作りたい、と思うのだが、どうしてもその気になれない。

という状態が長らく続いていた。

やっぱり、動画を作り始めてから、コンセプトのマチガイに気づいたのがいけなかった。あれでくじけてしまった。

簡単に作れる動画ならともかく、手間をこめたものだとどうしても時間がかかる。

まったくのゼロから作るのでないとしても。

 

というわけで、製作しようとしているのは、何かは説明しないという。

完成してから披露しないと、どうしてもやる気がそがれるのが自分の体質。いま語っているのは、失敗したものに一区切りをつけるためのもの。

書きたい、あるいは書きたくないの基準

書きたい、で書けるのは偶然。書きたくない、で書けるのは実力。

そして、書けない、で書けるのは才能。

なんとなくそれっぽく書いてみたけど。段階があり、それを感じるのは区別するため。その必要があるか。

ここで差をつけているのは、やる気。

やる気は定義されているか。

ちなみに、書き始めたけど、このテーマは書きたくない。

 

書きたくないのは、やる気の定義について、何も新しい発見がないからだ。つまり書きたいことがない。思考を積み重ねなければいけないが、その前提となる積み重ねがない。即興で書けるほど、器用さもない。

書ける範囲は、書く実力がありませんよアピールくらい。

たまには更新しないと、更新しないのがデフォになる

すべてがデフォになる(確信)。

そう、森博嗣さんの著書を読み直しているけど、こんなの昔読んだか? というくらい記憶にない。

きっちり読んだら、口調が移るから、ほどほどにしないとね。あまり自分の口調から外れるとみっともないから。

 

筋トレをしよう(唐突)。

身体が資本、とはよくいうけど、思考が身体に影響を与えているのは否定しようがない。

そういえば、今日はぐっすり眠ったけど、最近の運動が原因だったりするのだろうか。たぶんするんだろうけど。

運動をするなら、睡眠時間を増やしなさい、って指南はある。それを考慮しなかった自分が悪いのだけど、眠気にずいぶんと襲われていた。

夜中に起きているのに、眠気の話をするとは。

 

 

高揚感というか、面白さが沸き立つような執筆感がほしい

執筆の相性の話。

書く、という作業は、人によって得意不得意があるけど、得意な人はドーパミンでも出てるんでしょうね。どぱーっと。

何か、面白いことがないと執筆できません、という自分にとって、毎日更新とかは望むべくもないのだが、でもやりたいという。

面白い本を読んで、それの感想でも書くか、といっても、読んでいる時間が足りない。また、今読みたい本が、読みたい文章ではない、という問題が。こんな読みにくい文体を読まなければ読めないのか、という徒労感。それが面白さを半減している。これは単に相性の問題だから、書いた人には罪はないのだ。

書く、と読む、が分離している。書くのは、思考をそのまま書けばいいが、それを後からなぞる読むという作業では、不満がでることがある。

書くよりも読む作業に集中しなさい、読むことのほうが多いのだから。とかいうコード論は、ブログには当てはまるのか?

書いても書いても読み直さない、書きっぱなしのブログでは、読みにくさはひとかけらも改善されない。しかし、問題は、問題の発生したレベルのままでは改善されない。つまり、文章力が向上しないかぎりは推敲できないのだ。これはイタイ。執筆の良いところは思考ができるところだ、なんて指摘は、書く人全員が共感するかもしれないが、当たり前すぎることを書いても共感されないであろう。

原体験として、執筆には良い思い出はない。苦労した、書く、ということがまるで出来ない時期があった。答えるならできた。しかし、文章を綴る、という行為は、ある程度客観性がいる。客観視ができていない状態では、書けないのもムリはない。

書く行為は、過去の自分との対話だ、というもっともらしいことを考えたが、検証はしていない。文頭から離れるにつれ、文意を踏まえた文章を考え続けなければいけないのだから、対話という表現をした。この、文意を踏まえるレベルによって、感想文だったり、小説の出来が変わってくる。あまりに大きい文章の場合、ブロックごとに分けて、ここはこういう文意で書きましょう、みたいな設計図が要るようになる。

設計図を見て、完成図が想像できるか、という問題が生じる。設計図が曖昧な認識では、ぶれる恐れがある。まあ、ぶれるのも個性だから別にいいといえばいいのだが、完成度が下がるとすれば、避けたいもの。

この文章の場合、設計図はない。むしろ、全部即興で考えている。そう、考えている。文章を書き始めの時点では、全く、設計図の発想はなかった。そういう新しい出会いがあるので、文章を書くのは面白い。

駄文で詰める、戦略的でない一日

頭が回らないけど書いておく。筋肉を鍛える必要があるとき、速筋か遅筋か意識しておくといいかも。そうでないかも。

まったく筋肉が付いてないとき、筋肉をつけるといえば筋肉痛にすることだ、という当たり前のことに気づかなかったのは痛い。痛いから筋肉痛になるような運動は避けていた。それじゃあ、筋肉はつかない。

 

 

今日はどんな日だったか、振り返ろうにも、記録がない。記録していない、という欠点が、振り返りすら困難にしているので、進歩に繋がらない。基礎的なことだが、それをしない、というのはする人と比べることもできないので、損を測ることができない。

 

ハンドルする、という感覚が必要。必要というか、快適さに必要。どう動けば将来に渡って快適さを維持できるか、意識が必要。運動をしないと、基礎体力が下がっていくように、基礎生活力という概念を規定してやれば、手抜きがやばい、というのは分かる。

 

戦略的でないことが分かるのは、頭痛薬が二箱出てきたことでわかる。室内で消失する、なんてのは、置き場所が固定でないからだ。それをいかに実現していくかは、さきほどの基礎生活力の概念の内側にあるので、修正していく。

 

読めない、という壁に突き当たっている。精神的に読めないというか、感覚的に受け付けにくい文体で書かれているというか。これをぜび読みたい、という希望はあるのだが、どう解釈すればいいか、という疑問を差し挟みつつ読むには慣れてない書き方だったりする。これは、1ページでギブアップした大江健三郎さんの書物を意識せざるを得ない。そこまでじゃない。

 

読みにくい文章に出会うたび、大江健三郎さんの名前を出すのは、不本意だ。もっと読みにくい代表がいるはずだ。

解決策のない問題はストレスになるから、話題にもしたくない派

車椅子の方と飛行機運行会社の対立が話題になってます。

こういう、情報の偏りで意見の分かれるようなものは、コメントしずらいです。

 

通常の会社側の立場に従うと、「車椅子ユーザーは事前にお知らせください。断りますから」というメッセージらしいね。どこまで本当か、わからないけど。

人権問題になるから、事を荒立てたほうが車椅子ユーザーにとってよかった、というのは分かる。でも、「特別待遇が望ましい」というのは、なんか違う。

 

ここで、Win-Winの条件が分かるといいけど。

車椅子ユーザー側は、通常のチケット購入で乗りたい、運行会社としては、車椅子の識別と搭乗のトラブルを避けたい。

なら、IDの発行、かな?

それくらいしか思いつかない。

それはそれでトラブルの元にしかならない気がするけど。

ブログエントリーとタイトルと本文とコメントの関係性

ブログを書く上で、100%意図が通じると信じている人は何%居るんでしょうか。または、100%考えていることが書けている、と信じている人は何%でしょうか。

 

ブログを書くと、ある思考を読者がなぞってくれるはずだ、という意図があるわけです。しかし、それを外れるコメントがあったとしても、それは当然あり得る訳です。ブログという構造上、コメントはどの時点で書くかは決まって無く、タイトルを読んだ時点で書くことも可能であるのだし。

 

さて、タイトルと本文が乖離している、または断層があるエントリーがあったとしましょう。それは意図して行ったものではないかもしれないけれど、結果的にそうなったとします。

書き手はどういう期待をしているでしょう。

エントリーで言いたいことが、読み手に伝わっていることが、理想でしょう。しかし、往々にして期待通りにはならないし、その責任の半分は書き手にあります。

書いてあることが読みやすいか、それは書き手の能力に依存します。能力を棚に上げて、伝わってないからといってその責任をすべて読み手に乗せるのは、思考力に疑問を持たざるを得ません。伝える努力をすることと、それが必ず伝わる保証になるかとは別の問題です。それに気づいていない、というのは、冷静な判断ができているとは言いがたい。

『タイトル』は、本文の要約であることが望ましいのは、言うまでもありません。予断を持つのが当たり前だからです。むしろ、タイトルと違った結果を本文に書いてあると、読者は混乱するでしょう。タイトルから推察できることを、本文から読み取ろうとするのは当然ですし、それが書いてない場合、タイトルと本文のミスマッチであると気づくかどうかは運ですし、書き手がそういうミスをしていると指摘するのははばかられるものです。

親切に「タイトルの付け方が間違ってますよ」と、仮にコメントした場合、何が起きるか。

傲慢な書き手の場合、本文を読めば分かるとし、自分がタイトルの役割を軽んじていることは無視して、読み手が越権していると感じることでしょう。そもそも、タイトルが持っている意味を勘違いしている場合があるでしょうし。

再度書くけれど、タイトルは本文の要約です。もちろん、型からはずれた文章を書くことは可能ですが、基本を押さえておくことは常識です。

直接的に言わなくても、タイトルからの類推とは違った本文が書かれていた場合、『私は混乱している』というメタメッセージが書かれる可能性がある。

ブログの書き手が、セオリーを外して書いているのだから、当然です。しかし、メタメッセージは、想定していないと、メッセージだけしか読まず、メタメッセージを読み落とす可能性がある。本文通りのタイトルをつける能力がない時点で察せるのだけど、メタメッセージは読み落とすでしょうね。

 

さて、メタメッセージを読み落とすと何が起きるか。

エントリーが読めてない、と書き手は感じるものです。本当に読めてないのは書き手自身なのですが、それが分かってない。

そうなると、何を言っても通じない。そもそも読み取るだけの能力が無いですよ、というメタメッセージを発しているのだから。

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